「豊かさ」とは?
みなさんは「仕事」をすることに対してどのようなイメージをお持ちですか?
育児と両立したい、休日はしっかり取りたい、与えられた仕事をしっかりこなさねば…。このような思いを持っている方も多いでしょう。
周りの大学生がインターンに行き始めたこの時期、僕も卒業後の「はたらく」イメージについて考え始めました。その時ふと、毎日単調な「普通の」暮らしを続けていくことにちょっとした違和感を感じ始めていました。また、5月に島根県の海士町に行った経験から、「仕事で選ぶのではなく、住む場所で選ぶ」ことに興味を持ち、今とは違う地方での暮らしについて、考え始めていたところでした。
その最中に見つけたのが【くらしの学校「えん」】。自給自足の生活をするために上五島(新上五島町)、しかも誰もいなくなった集落に移住し、塩づくりで生計を立てる小野敬さん(ゴリリン)のお宅で二週間就業させていただけると聞き、即決で申し込みました。
初日に到着した際、ゴリリンに就業時間や内容について聞いたのですが、その際に言われたことが僕にとって印象的でした。それは、仕事と生活に明確な時間の区別がないということでした。
ゴリリンの塩は、365日24時間、台風直撃など気候に大きな変化が起こらない限り、薪を使って一から起こした火を絶やさず、時間をかけて丁寧に作られます。その仕事には明確な「休み」というものがありません。火の燃え方を見て、消えそうになったら薪をくべ、塩がちょうどよい濃度になれば釜を移動させる。大体の時間は経験則でわかるみたいですが、それでもちょっとした気候の違いで塩の質が変化するので、常に注意を払う様子が見受けられました。それ以外の時間には草刈りをしたり、息子さんや山村留学(下記参照)に来ている子どもたちの面倒を見たり、イベントの準備をしたりと、彼の姿からは「しごと」と「くらし」との境界を感じませんでした。これは、僕を含めて多くの人が思う「はたらく」姿とは大きく異なるものでした。
ゴリリンの自給自足を中心とした生活は「食べ物本来のおいしさ」も大切にします。
ゴリリンが移住してきた頃は2軒しかなかった塩屋も、今では30軒近くまで増加しました。ただ、鉄釜を使用しているのはゴリリンだけ。他の塩屋ではステンレス製の釜が主流です。もちろん、メンテナンス面で使いやすいのはステンレス製です。錆びることのないため大変な交換作業もありません。
ではなぜゴリリンが鉄釜にこだわるのか。
それは、鉄釜のほうがよりまろやかな味が出るからだそうです。ゴリリンも一度、ステンレス釜を使って塩を作ったことがあるそうですが、どうしても角ばったきつい味しか出なかったそうです。実際自分も塩単体で両者を比較してみると、素人目でも違いは一目瞭然。よい塩づくりのためには少しも手を抜きません。
僕たちインターン生は、豆腐、味噌、椿油などを作るお手伝いもさせて頂く機会がありました。その過程でも、余分なものは入れず、素材本来の工夫を活かして作られていました。毎日の食卓に並ぶものもこだわりのものばかり。これほどおいしい料理を毎日提供してくださって、感謝しかありませんでした。
「地方」と「都会」、この違いは何でしょうか。
多くの人は「都会」にはヒトやモノがあふれており、「地方」にはそれが少ない、と考えるのではないでしょうか。
また、「都会」の学生は家にこもってテレビゲームをするが、「地方」の学生は自然の中で思いっきり遊ぶ、というイメージを持つ人もいるかもしれません。
しかし、このイメージは時として、一面的な考えであることもあります。確かに地方は、東京や大阪といった大都会と比較して人や物の数が少いことは否定できません。ただし、地方においても、生活に必要な設備に加え、娯楽もそろっている場合もあります。現に新上五島町の中心部にはコンビニもあり、スーパーもあり、レンタルビデオ店もあります。
確かに都会の学生は、自然の中で遊ぶことよりも、スマホを触ったり塾に行ったりとインドアな生活を送ることが多いかもしれません。しかし、地方の学生が必ずしも自然の中で思いっきり遊んでいるかといえば案外そうでもありません。
自分自身、「地域」という先入観が入っていたため、入島当日に島の中心部を通った際、ここが地方であることに違和感しか覚えませんでした。
「都会」と「地方」の線引きは案外難しいのかもしれません。千差万別。
また、その町で生まれ育った人は、その町が持つ「価値」に気付けていないことがあるようです。自分たちが遊んできた海や川、山、そして美しい建築物でさえも、そこにあるのが当たり前と感じてしまうのです。だからこそ、目の前に美しい海があっても、溺れると危険だからとあまり子どもを自然の中で遊ばせず、ゲームを与える親もいるそうです。
これをもったいないことだというのは傲慢かもしれません。しかし、「よそ者」である自分たちの視点から見ると、新上五島町には美しい自然がたくさんあることは紛れもない事実です。どこから見ても美しい海辺、矢堅目の夕陽、多種多様で地域特有の教会建築…数えられないほどの「いいところ」があります。
「こうした自然に囲まれた生活がしたい」、そう考えて全国各地、特に都市部からやってくるのが山村留学の子どもたちです。
くらしの学校「えん」では年に数人の山村留学生を受け入れています。彼らは原則一年間、親元を離れ、ここでしかできない様々な体験をします。スマホなどのデジタル機器からも離れ、薪で風呂を沸かし、魚をさばき、虫と共生し、休みが来れば思いっきり海で遊ぶ。視点を変えれば、島の子どもたちの何十倍も「島らしい」生活をしています。
おそらくこうした事実は、島によってまた地域によっても異なってくるでしょう。こうした側面があることを知れたことは、今後僕が地域で何か起こそうとする際に大変大きな意味を持つと考えます。
こうしたことはゴリリンとの話の中で、また椿油絞りを手伝いに来てくださった地元の方々と話す中で知ることができました。
よく都会はコミュニティが薄く地方では濃いということを耳にしますが、地元の人のあたたかさ、話しやすさ、コミュニティの広さを実感することができました。
僕は今回の研修を通し、「豊かさ」とは何かについて考えました。
一般的に「豊か」な社会とは、都会のようにモノがあふれ、どこにでも自由に移動でき、自分の望むことができるような社会をイメージする人が多いのではないでしょうか。
確かにそれも一理あるでしょう。しかし「豊かさ」には、「今あるものを大切にして十分に生かし、多くの人と気兼ねなくかかわることができること」という側面もあるのではないでしょうか。
すなわち、物理的充足性ではなく精神的充足性に視点を当てた「豊かさ」の定義です。
新上五島町には確かに、映画館もなければファーストフード店もなく、また学校の数も少ないため、タクシーやバスを使わねばならないという不便さもあります。しかし、ここに暮らす人、少なくとも僕がお会いした方は、不便なことがあるにしろ、この島での暮らしを楽しんでいるように感じます。
くらしの学校「えん」になぜ人が集まってくるのか。椿油のイベントなどで様々な方に聞くと、「何か面白いことをやってるから」という答えが多く返ってきました。また、これまで長期休みの度に開催されてきた小中学生対象の「島キャンプ」に常連として参加してきたOGの方は、「この場所に来ると落ち着くから」と言っていました。
今ここにいる人はきっと豊かなのだろうな。
もちろん、この島に住む人全員が「豊か」に感じているとは思いません。早く都会に出ていきたいと思っている人もいるでしょう。そうした人でも、ふとした瞬間に戻ってくると、何気ない光景が特別なものに感じるのかもしれません。
僕を含めたそうした「よそ者」の視点を持つ人々が、島の魅力をもっと発信できればと思います。
僕は大学の講義があるため他のインターン生より早く帰りましたが、不思議と寂しさは感じませんでした。またすぐに戻ってくる気がするから、です。
戻ってきたときにあたたかく迎えてくれる場所、困ったときに相談できる場所がまた一つ新たにできたことは、僕にとっての「豊かさ」でした。