「気づき」の連続
「沖永良部島は農業が盛んである。」これを聞いてかつての自分が真っ先に想像したものといえば、内地と隔絶した環境でなごやかに自給自足をする牧歌的な光景であった。
実際に沖永良部の農家に話を聞くと、これがまた予想のはるか上。国内外の経済状況に目を凝らし、新しい情報はすぐに取り入れ、作業を効率化させるためには機械の自作もおこなうそう。また、台風の情報もいち早く入手し、日常会話の中には「ヘクトパスカル」という単語が飛び交う。農家の皆さんは、常に情報を察知しては現状を見直し、さらなる高みを目指している。その向上心と行動力が島の「農業力」となり、沖永良部島を古くから支えているのだ。
離島といえども目まぐるしく変化する世界の波に乗り、離島がゆえに自分たちの力で舵取りをしなくてはならない。ときには台風をかわしながら前に前に、それでも笑顔で進んでいくエラブの農業魂には心から尊敬する。かっこいい仕事とは、都会のビル街を颯爽と歩くビジネスマンのものだけではないのだ。
ここまで沖永良部の農業力についてざっくりお話ししたが、「南の島なんだし、観光業だって充実してるんじゃないの?」と思う方もいるだろう。
たしかに沖永良部島はどこを撮っても無加工で映える。観光地としては申し分ない絶景を持っているが、近隣のリゾート島に比べて観光の色が薄いように思える。
しかし、沖永良部島は持ち前の農業力で輝いているように感じる。詳細な島の事情はわからないが、離島が必ずしも観光業に力を入れずともいいのだと思った。
島に行く前の私は、地方や離島はみな観光客でにぎわうことが地域活性につながるのだと思っていた。しかし、それは現地の事情を知らず盲目的に娯楽を求める消費者側のエゴだと気付いた。
現地でなにを大切にしているのか、なにを必要としているのかは、実際に見てみないとわからないものだ。それをふまえて積極的に行動することで「仕事」になっていくのだと思う。
「敬天愛人」は、西郷どんこと西郷隆盛が沖永良部島に流された経験から座右の銘にした言葉であるとされている。
森羅万象に敬意をはらい万人を思いやれという意味だそうで、この言葉が胸に刻まれる瞬間を、私も少なからず島で経験した。
島に行く前の私といえば、空を覆う高層ビルや人混みに耐え切れず、他者の痛みに気を留めていられないほど心の余裕がなくなっていた。他者に手を差し伸べたところで自分が得するわけじゃないし、拒否されたら嫌だという思いから。
そんな私が、都心と同じ時間軸にいながらも、時の感じ方がまったく違う島に流れ着いた。同じ2018年8月の日本を過ごしているのに、時の進み方が都心に比べ、あまりにもゆっくりに感じるのだ。電車が無いので満員電車にも遭わない。道路が渋滞していない。島のほとんどの予定が天候次第。予定が狂っても苛立たない。自分の心に余裕が持てるため、他者にも見返りのない気配りができる・・・島に来る前の自分がどれだけ神経質で冷淡であったことだろうと気付かされる。
島の厳しく雄大な自然が、人々の強くて優しい精神を育んだのだと思うと納得であるし、わずかでもその精神に影響されたことは、とても幸せである。島から帰った今でも、これから先も、この姿勢を貫いていこう。